倍賞千恵子の現場 PHP新書

熊太郎


倍賞千恵子の現場 『男はつらいよ』『幸福の黄色いハンカチ』『駅STATION(ステーション)』出会った素敵な人たち 倍賞千恵子 PHP新書


倍賞千恵子:女優。1941年生まれ(昭和16年。現在84歳)。1960年(昭和35年)松竹音楽舞踏学校卒業。松竹歌劇団入団。翌年、松竹映画でデビュー。62年『下町の太陽』でレコード大賞新人賞。その後、映画『男はつらいよ』シリーズで、さくら役を務める。


 2017年(平成29年)に出版された本です。


 この世代ですから、戦争中の話が出ます。(第二次世界大戦)
 茨城県に疎開されていたそうです。
 戦後の浅草でがんばった話も出ます。
 浅草は、芸能文化の中心地だった。浅草で芸能人として育った。
 そんなことが書いてある、『はじめに』から始まりました。
 映画、『下町の太陽』に出演したとき、倍賞さんは22歳、映画監督の山田洋次さんは32歳です。長い時が流れました。


 自分も同じ時代を生きてきたので、思い出は多い。


『第一章 寅さんと渥美さんと私』

 わたしは、『男はつらいよ』シリーズは全部観ました。リアルタイムで、その時代に映画館で観た作品もありますし、その後、DVDで観た作品もあります。

 スクリーンの中で、家族が、わっちゃかやるわけですが、スクリーンの中の世界と現実の世界が一致していました。

 映画を観終えて、映画館を出て、家に帰れば、寅さんのご実家と同じような自分の家や家庭がありました。


 昭和40年代は、(1965年代)まだ、人と人との距離がとても近い時代で、いなかの映画館だと、観客と映画館で働く人が知り合いでした。

 スマホはない時代ですから、映画を観ていると、映画館の人が、後ろにある出入口扉のあたりから、観客に向かって、『〇〇く~ん、家から電話だよーー』と声をかけてきました。『は~い』と立ち上がって、電話に向かうお客さんがいました。

 また、映画館の座席は、今みたいに、指定席ではありませんでした。

 いろいろ世の中は変わりました。


 本を読みながら、渥美清さんは、演技の天才だったことがわかります。
 黒柳徹子さんが渥美清さんと仲が良くて、たまに番組、『徹子の部屋』で亡くなった渥美清さんの話をされます。フーテンの寅さんは、演技であって、ご本人は寅さんの個性とは、まったく違う人だったと聞きました。渥美清さんは、俳優さんなのです。


 男はつらいよの俳優陣のチームは、かなり人間関係の相性が良かったようです。各自の能力が高かったこともあるのでしょう。問題や課題があったようには思えません。みなさん楽しく仕事をされています。


 読みながら、自分たち家族が、葛飾柴又を訪れたときのことを思い出しました。
 京成電車の柴又駅の駅舎とかホームとか、寅さんやさくらさんの銅像とか、柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん。お寺さんです)のことも思い出します。
 帝釈天の渡り廊下の欄干に(らんかんに)、まだ幼児だったうちの男児の孫がしっかりつかまりながら、大きな声で、『まっかだなー まっかだなー つたーのはっぱが まっかだなー』と、童謡の『真っ赤な秋』をいっしょうけんめい歌っていました。渡り廊下を歩いてきたおじいさんたちのグループが、じょうずだねーーと優しく声をかけてくださった光景を今も覚えています。幸せなひと時でした。まるで寅さん映画の中のシーンのようでした。


 渥美清さんの演技のふくらませかたがうまい。台本に書いてあることはシンプルです。渥美さんでないとやれないキャラクターが、車寅次郎(くるま・とらじろう)です。


 倍賞千恵子さんのお父さんも、ふだんは優しいのに、お酒を飲み過ぎると、ちゃぶ台をひっくりかえすタイプだったそうです。ストレスをアルコールで発散するタイプです。アニメ、『巨人の星』の星一徹(ほし・いってつ)もそのタイプでした。さらに、わたしの父親も同類でした。アルコールが入っていないときは、ちゃんとした人間なのに、アルコールが入ると暴れん坊になるのです。わたしも母も苦労しました。そんなふうだったから、父は体を壊して病気になって、わたしが中学に入学したころに亡くなりました。昭和の時代は、そんなタイプの男が、世間にたくさんいました。


 渥美清さんも、高倉健さんも、『贅肉(ぜいにく)のない芝居』をされていたそうです。
 すっと立っている。ムダな動きはしない。
 隙(すき)がないのに隙があるように見せる。美しい。
 渥美清さんには、取り巻きの人がいなかった。
 財布やカバンは持ち歩かなかった。
 ポケットにお札が裸で入っていたようです。
 1万円札を東京代官山駅の売店の人に預けておいて、そこから引いてもらって物を買って、足りなくなったらまた1万円札を預けるという物の買い方をしていたそうです。電車に乗る時は、1万円を預けたお店の人から、切符を買うための小銭をもらっていたそうです。なお、代官山のマンションを本宅とは別に仕事場として借りていたそうです。きっと、マンションで、演技の練習をしていたのでしょう。


 渥美清さんのお母さんが認知症になってしまって、渥美さんのことがだれなのかわからなくなってしまった話が書いてあります。『(あなたは)どちら様ですか?』の世界です。


 渥美さんは心優しき人です。障害者に優しい。不安をかかえている俳優さんに優しい。よほど苦労されたのでしょう。苦労された人は、優しい人が多い。


 倍賞千恵子さんが、乳がんで入院された病室が、偶然、渥美清さんが、肝臓がんから肺に転移したときに入院していた病室と同じだったそうです。人の縁があります。


 『男はつらいよ』の第一作のとき、渥美清さんが41歳、倍賞千恵子さんが26歳です。
 渥美清さんは68歳でお亡くなりになりました。1996年(平成8年)8月4日でした。


『第二章 本番、よーいスタート!』
 映画監督の山田洋次さんのことが書いてあります。映画の撮影時は厳しい人です。1931年(昭和6年)生まれ、現在は94歳になられました。
 本に書いてあることはかなり古い。昭和30年代のお話です。(1955年代)


 昔は見合い結婚が多かった。愛情よりも、経済的に食べて行けるかどうかが結婚相手を選ぶための『ものさし(基準)』でした。(『男はつらいよ』の第一作で、さくらさんは、社長の息子との見合い相手を断って、印刷工場の工員である博さんとの結婚を選びます。お金よりも愛情を優先した当時では珍しい選択でした)


 佐藤蛾次郎(さとう・がじろう)さんは、倍賞さんの料理の先生だったそうです。意外です。


 『男はつらいよ』シリーズは、思いやりとか、優しさがいっぱい詰まった映画でした。


『北海道、そして健さん』
 健さんは、高倉健さんです:2014年(平成26年)83歳没。福岡県中間市(なかまし)出身


 わたしは親族といっしょに映画館で、『幸福の黄色いハンカチ(しあわせのきいろいハンカチ)』を観ました。1977年(昭和52年)秋の公開でした。名古屋市の矢場町というところに、たしか、ヘラルドというような名称の映画館がありました。今はもうありません。


 『幸福の黄色いハンカチ』では、炭坑長屋住宅の前に立てた、『鯉のぼりの竿(高倉健さんが生まれてくるこどものために立てました。でも、妻役の倍賞さんは、流産してしまいました)』に、倍賞さんが、自分(健さん)がしたことを許して迎え入れてくれるのなら、黄色いハンカチをぶらさげておいてくれ。もしそれが下がっていなかったら、俺はそのまま引き返して、二度と夕張には現れないからと手紙を出したのです。


 結果、鯉のぼりの竿には、2本のヒモが山型につながれていて、そのヒモには、たくさんの黄色いハンカチが吊るされていたのです。(つるされていたのです。本を読むと、美術部さんが、1枚1枚ミシンで縫ってくれたそうです)。いたわりあう夫婦の基本を描いた名作映画でした。


 本には、ふたりが出会ったスーパーでのレジ打ちをする倍賞さんの演技について書いてあります。倍賞さんはレジ打ちの練習を繰り返し何度もされています。レジ打ちをしながら自然にセリフを言うのはとてもむずかしかったそうです。
 考えてみれば、今では、レジは、セルフレジにまで進化しました。レジでの男女の出会いは望めそうもありません。バーコードで価格読取りのピッピッという音がするだけです。


 倍賞千恵子さんが、東日本大震災の被災地である岩手県山田町の小学校を訪れたときのことが書いてあります。校庭にある校旗掲揚のポールに黄色いハンカチがずらりと並んでいたそうです。


 作品、『駅STAION』では、烏丸せつこさん(からすませつこさん)と根津甚八さん(ねずじんぱちさん)の演技が忘れられません。連続殺人鬼の兄と食堂で働く妹さんでした。心にじんとくる人間模様がありました。根津甚八さんも亡くなってしまいました。さびしい限りです。2016年(平成28年)69歳没でした。


『第四章 普通を演じる』
 得たものを捨てないと次の仕事ができないという倍賞千恵子さんの意識について書いてあります。
 賞を受賞したら、そのときは喜んで、なるべく早く受賞したことを忘れる。トロフィーや賞状は、一定期間が過ぎたら処分するそうです。


 俳優として演技をする仕事についての心構えが書いてあります。
 ちゃんと生活していくのです。ちゃんと生きる。
 たくさんの人たちに見られているという意識をもつ。
 まじめにきちんとした生活を送る。
 演技中は、演技をしている自分を見ているもうひとりの自分を設定して、もうひとりの目線で、自分の演技を分析・評価していく。
 『男はつらいよ』のさくら役では、結婚、出産、子育て、息子に彼女ができて、息子が就職してという経過の中で、老いていく母親の役を仕上げる。
 自分は、お嬢さん女優ではない。生まれ育ちは、にぎやかな下町の長屋だった。庶民派女優、下町の女優という立ち位置でこれまでやってきた。


 『お笑い』のことについて書いてあります。演じる人たちは、まじめで、集中力があったそうです。渥美清さん、ザ・ドリフターズ、志村けんさん、みなさんお笑いに対して、真剣な態度で取り組まれていたそうです。情熱とひたむきな努力があります


 笠智衆さんのお人柄について書いてあります。
 笠智衆(りゅうち・しゅう):俳優。1993年(平成5年)88歳没
 いつも竹のようにまっすぐ立って、風が吹けば風にまかせて、しなやかにゆれるようなお人だったそうです。そして、とてもまじめな方です。


 役者にとって、必要なものは、『観察力』だそうです。
 そして、プロの世界はとても厳しい。
 ずばぬけた才能と努力、運と人間関係が必要と読み取れます。
 今年読んで良かった一冊になりました。


『第5章 人生というステージ』
 自分の仕事は、女優と歌手だそうです。
 戦時中、茨城県で疎開していたときの神社で座布団(ざぶとん)をあかちゃんに見立てて、『赤城の子守歌(あかぎのこもりうた)』を歌ったそうです。まだ、3歳か4歳ぐらいのころでしょう。
 やはり才能に恵まれていたのでしょう。その後、いろいろな選考で合格されて、とんとんびょうしに芸能人の仲間入りをされています。


 1993年(平成5年)作曲家の小六禮次郎氏(ころく・れいじろう氏)と結婚。倍賞千恵子さんが、52歳ぐらいのときです。
 倍賞さんは、2001年(平成13年)に乳がんの手術をされておられます。60歳のときです。
 倍賞千恵子さんは、癌の家系の方に見えます。母(肺がん。1988年(昭和63年)没、父(喉頭がん。1995年(平成7年)没
 236ページからは、『生と死』のお話です。
 余生を楽しく過ごすために、日々をちゃんと生きる。そう自分に言い聞かせておられるそうです。
 その部分を読んで、わたしもちゃんとしなきゃと再認識したのでした。
 今年読んで良かった一冊になりました。倍賞さんありがとう。


 写真は、2018年(平成30年)に現地を訪問したときのものです。

 柴又駅前と柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん。お寺さん)です。 

  

         


         

☆いつも見てくださってありがとうございます♬