きみの鳥はうたえる 邦画 2018年
きみの鳥はうたえる 邦画 2018年(平成30年) 1時間46分
監督:三宅唱(みやけ・しょう)
原作:佐藤泰志(さとう・やすし。1990年(平成2年)41歳没。自死)
俳優:
僕:柄本佑(えもと・たすく)
静雄:染谷将太
佐知子:石橋静河(いしばし・しずか)
舞台:函館市
僕と佐知子は、書店でバイトをしています。
佐知子は、店長とできていますが、僕とも付き合い始めました。でも、カップルという関係には見えません。
僕も佐知子も男女として体の便利な関係に見えます。
観ていて、3人とも精神状態はまだ、『こども』です。
自分が、好きなこと、したいことをしているだけです。
自分がやりたくないことでも、やるべきことをやるのが、『おとな』です。
この映画では、若者たちが、『おとな』になっていく経過が表現されます。
冒頭からながらく、けだるい時間帯が続きます。(観客の心にある不満がふくらんでいきます。いいかげんな若者たちです)
たわいない言動(意味があるようでない。かれらの未来に夢はない)が続きます。
いいかげんな日々です。
電子マネーはない。
タバコはある。
スマホはある。
朝から酒臭いバイトの男はいる。
『こども』は、自由に生きる。自分がやりたいことをやりたいようにやる。他人の気持ちなんか考えない。100%自分のことを考える。(幼い(おさない))
映画を観ている自分にもそんな時期がありました。
自分の若い頃をふりかえって、未熟者だったと恥ずかしくなります。(はずかしくなります)。無礼者(ぶれいもの)でした。その記憶は、老いた今(おいたいま)、白い霞(かすみ)に包まれています。
青春時代でした。ばかだった。
平坦(へいたん)な物語です。
しばらく前に観ていたNHKドラマ、『ひらやすみ(平屋暮らしの休み)』みたいです。岡本天音(おかもと・あまね)さんが好演でした。森菜那さんも良かった。
こちらの映画では、主人公の『僕』は僕で、結局氏名が出てこなかった記憶です。
主役がだれということもありません。
話は、ドキュメンタリーのように淡々と流れていきます。
恋愛とは何なのか。(わたしはもうそんなことは考えません。(自分はもう)歳(とし)だと感じます)
登場人物たちが、音楽を楽しみます。
音楽を楽しむ=案外(あんがい)『ごまかす』に通じている
石橋静河さんのプロモーションビデオのようでもある。(演技力でちょっと力不足感がありました)
三人の若者たちは、楽しげではあるけれど、じっさいは、さびしげである。
北海道函館市内、市電が走る街の風景があります。
人口はどれぐらいなのだろう。23万6000人、都市部に住んでいる自分の感覚だと、それほど多いわけでもない。函館というのは、狭い街という、かってな想像をしました。
体の付き合いが、「作業」になり、男女の仲は冷めていく(さめていく)。
優しい(やさしい)=干渉しないが、彼らのやり方です。
その場限りの、便利な男女関係に見えます。
未来は、グレー(灰色)です。
登場人物の、『僕』は、テキトー男でありたいと言う。(僕は、『こども』です)
僕には、裏表(うらおもて)がない。
不思議な明るさがある。<何も考えていない>
本屋の中の人間関係はむちゃくちゃで、組織として、終わっています。
終わっている男女の人間関係です。
無責任な人たちです。
三人の若者たちは、若いから気づけない。
『でも、やがて老いは、ゆっくり近づいてくる』
生活に何の柱もない若者たちです。
『僕』は、意志のないグニャグニャ(コンニャクとかイカとか)な男です。
静雄の母親が出てきました。
う~む。母親は、病気には見えません。
三人が支離滅裂になっていきます。
三人は分解するわけか。
両親とか、兄弟姉妹とか、親族とか血族とか、若者たちのまわりに、関係のある人たちがほとんどいない世界で三人はその日暮らしです。
この人たちは、いったい何なのだろうか。
佐知子:『聞いてほしいことがある。静雄と恋人として付き合うことにした』(こういう女性っている。男を転々と変えていきます)
空気のような男になる。(『僕』の目標)
観ていて、バカだなと思います。生きている意味が感じられない意思表示です。(映画では、そのままでは終わりません)
伏線として、①120数えるまで待つ(女がくる時間) ②女が男の腕をつねる。
ここから、『おとなの世界』が始まります。
『こども』からの脱却が表現されています。
むかしはやった、フォークグループバンバンの、『いちご白書をもう一度』という歌を思い出しました。1975年(昭和50年)の発売でした。思春期・青年期からおとなに脱皮する状態を表現したいい楽曲でした。
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